篠原新たまねぎについて
庄島農縁が日本全国にお届けしている、
甘い中にも爽やかな辛味があり
みずみずしくて柔らかい
篠原新たまねぎ。
その歴史と秘密を公開します。
まずは、篠原新たまねぎのご先祖さまを
訪ねてみましょう。
たまねぎの原産地
たまねぎの原産地は、はっきりわかっていません。
中央アジアから西アジアにかけての範囲だろうと
言われています。
古くは、ピラミッドの建設に従事した人に対して、
スタミナをつけ、病気にならないようにするために
配給されたそうです。
世界では古くから栽培されていた玉ねぎですが、
日本で栽培が始まったのは、明治時代に入ってからでした。
日本の玉ねぎのルーツは大きく分けて2種類
現在日本で生産される玉ねぎのルーツは2つあります。
一つは北海道、もう一つは大阪です。
北海道の玉ねぎは、アメリカから
イエロー・グローブ・ダンバースという品種が導入され、
そこから札幌黄という品種が生まれました。
一方大阪にはイエローダンバースという品種が導入され、
泉州黄という品種が生まれました。
今の日本の玉ねぎの大部分は、
この2つの玉ねぎの子孫と言われています。
また、一般的な黄色い玉ねぎのほかに、
白たまねぎと赤たまねぎがあります。
白玉ねぎは、フランスから
「ブラン・アチーフ・ド・パリ」
という品種が導入され、愛知白となりました。
赤玉ねぎは、アメリカの
「スタックトン・アーリー・レッド」が
「湘南レッド」になりました。
湘南レッドが開発される以前にも
赤玉ねぎが栽培されたことはあったようですが、
開発時には生産されいなかったそうです。
篠原新たまねぎの始まり
篠原で初めてたまねぎが栽培されたのは、
明治44年のことでした。
愛知県知多郡から篠原に移り住んだ加藤音吉さんが、
知多の白たまねぎの種を持ち込み
栽培を始めました。
篠原の気候風土が玉ねぎにあっていたので、
栽培面積はどんどんと増えていきました。
和歌山県から種を大量調達
大正10年、篠原村農会は、和歌山県から
たまねぎの種を130リットル調達、
25ヘクタール栽培して600トンのたまねぎを出荷しました。
この種はおそらく泉州黄の系統を引いた
黄色たまねぎだったと思われます。
篠原のたまねぎは、昭和17年には
130ヘクタールまで作付けが広がりました。
主な販路は東京、横浜、大阪、そして地元浜松だったようです。
当時日本一のたまねぎ産地だった
大阪泉南地方産の玉ねぎに比べて
甘みがあるということで、
都会の料理店からは
必需品とされていたそうです。
篠原独自の品種改良
昭和28年に、西遠南部たまねぎ形質改善協議会が発足しました。
これまで木曽川流域や長野に種取りを委託していたけれども、
思ったように種が取れなかったので、
種を確保するとともに、早出しの種を作ることになったのです。
そして、昭和32年には、4月中旬に収穫できる品種が誕生しました。
貝塚早生の系統で、扁平な形でした。
その後もさらに端境期を狙って早生化をすすめ、
昭和40年末期から50年代初頭には、
3月下旬から収穫できるようになりました。
形も、市場の要望に応えて
扁平型から中甲高に改善されました。
この品種改良を先導したのは、
中津川正数さんでした。
篠原で早出し甲高の品種改良をすすめている昭和40年代には、
種苗メーカからF1品種が続々と発売され、
多くのたまねぎ産地はF1品種の栽培に切り替えていきました。
結果として、篠原は日本一の早出したまねぎ産地になりました。
甘い玉ねぎができる理由
「他の産地から持ってきた種で作った玉ねぎも、
2年、3年と経つにつれて辛味が消えて甘みが出る」
という篤農家の談話が、
地元の図書館に収蔵されている郷土資料に
掲載されています。
篠原という土地が、たまねぎを甘くするようです。
その要素として考えられるものは、いくつかあります。
・温暖な気候と長い日照時間
・土壌が砂なので冬でも地温が高い
・海岸沿いで地下水位が高い(1m掘らずに地下水が湧く)
・遠州のからっかぜ(北西の季節風)を受けて育つ
・潮風で海のミネラルを浴びる
篠原新たまねぎの現在とこれから
篠原の新たまねぎに追いつこうと、
各産地、特に九州地方の産地は、
早出しの研究を続けているようで、
年々追い上げられています。
篠原は、他の産地に比べると
作付面積は圧倒的に少ないです。
遠州灘と浜名湖、三方原台地に挟まれた
東西に細長い限られた地域だからです。
生産される数が少ない分、
篠原新たまねぎの価値が上がる。
その価値に見合った、
甘くてやわらかく、みずみずしい、
さっぱりとした辛味もあるたまねぎ。
いままでも、これからも、
この味が篠原の新たまねぎです。
参考文献:わが町文化詩 浜風と街道